わたしの家族

私の家族は両親と私、弟の4人家族です。2020年7月、弟が自ら命を絶ち3人になってしまいました。予想だにしなかった形の3人です。「両親よりも先に死んではいけないよね」と兄弟で決めていたことなのに…。私自身の気持ちの整理のために、そして自殺を考える方や自殺遺族様の小さな光になればと思い、このブログを始めました。

忘れられない朝

朝の電話

7時20分、母からの電話。
取り乱した声で「あきさん、あきさん(父の名前)」と呼ぶ声だけが聞こえ、切れました。

「お父さんが倒れたんだ…」

心臓がひゅっと縮みました。

 

その後すぐにまた母から電話があり、
「ターが、ターが死んじゃった、どうしよう、どうしよー?!」
という声が。

父親に何かあったと思っていた私は取り乱してしまい、怒ったような声で
「え、どういうこと?!」
と叫んでしまいました(思い返すと多分、そんなことを言った気がする)。

ショックを受けると、呼吸にくるもんなのですね。
それからはずっと心臓がどきどきして、息が上がっていました。


黒いパンツ、白のブラウスに着替えていた時点でもうだめだろうと思っていたのですが、喪服を持って行ったらいよいよ現実になってしまうと思い、持っていきませんでした。
母の取り乱しようからもう弟は帰らぬ人となったことを覚悟しつつも、そんなはずがないという思いが交錯していました。

駅までは15分ほどという、普段はなんともない道のりが長すぎて、まず電話番号を知っていた叔母の一人に電話をし、そして弟と私の共通の友人に電話。
駅ホームについてからは、近所の親しい友人に電話をしていました。
おばさんには事務的に伝えられたけれど、友人に伝えたときには感情を抑えきれず、泣きながらの電話となってしまいました。
一人で抱えることができず、自宅最寄り駅に着くまでの20分間はずっと親しい間柄の友人にLINEで連絡をしていました。

弟とは月末に会う予定だったので、「いいカメラ買ったから持ってくよ」というLINEを入れてしまいました。

とにかく、弟が死んだなんて信じたくなかった。

 

駅に着いたは良いけれど、切符が見つからず領収書を見せたときに駅員さんから
「本当はだめなんですけど、買ってらっしゃると信じます、どうぞ」
と言われたこと、タクシーの運転手さんにも家族が亡くなったことを告げると、おじいちゃんという外見の運転手さんは
「ええ、そりゃ大変で、お気落としなく!」
とおっしゃってくださり、お2人の小さな優しさが心に沁みました。
そして、普段絶対に切符をなくすなんてことはしなかったのに、やっぱり自分、慌ててるんだなあと少し客観的に自分を見ていた気がします。

実家に到着

実家に到着すると、警察の方は弟の部屋に3人ほど、母の近くに1人がいらして、母に事情をうかがっていました。

帰ってきた私に母が気づくと、私の腰にすがりついて「どうしよう、どうしよう」と繰り返していましたが、自分まで流されてしまうのが怖くて、手を握り返すだけにしました。

私は離れて暮らす姉であること、弟の姿を確認させてほしいことを近くにいた警察の方に伝えましたが、そのときは弟の亡くなっていた部屋の確認や遺体確認が必要とのこと。

すぐに弟が会うことができず、まだ死んだなんて半信半疑でした。

別室にて母とともに警察からの最近の弟の状況や交友関係などの質問に答えていきました。

そこからは意外と冷静で、弟はもう死んでしまったことを受け入れ、それならばということで、弟との共通の友人男性M君に電話。

「はあ、どういうこと?」

と信じられない様子でしたが、ちょうど仕事が休みだったM君はそこから20分ほどで家に駆けつけてくれました。
彼の到着直後、警察に

「確認いただけますので、お姉さま、どうぞ」

と、呼ばれて行くと、そこにはシーツにくるまれた弟がグレーのシートに横たわっていました。
首を吊ったにもかかわらず、目はきれいに閉じ、口も少し開いている程度でした。

でも、耳だけはもう紫に変化していて、そこはもう私の知っている弟ではなくなっていて、どうやっても復活しないんだなと感じました。


「何やってんだよ」
これが彼にかけた私の第一声です。
ぺとりと冷たい額を引っぱたいてもどこか他人のようで、涙も出ませんでした。
親に何て迷惑かけてるんだよ。
兄弟で、親より先しんじゃだめだよねって語ってたじゃん。
「お母さんは子どもに先立たれたら発狂しちゃうよね」なんて言ってたじゃん。
今月末に、私の仕事手伝いに来るって約束してたじゃん。
何やってんだよ。

その後ネットで調べて葬儀屋さんに連絡すると同時に、弟のLINE履歴を見て最近連絡をしていた方には事情をお伝え。
早い方はこの段階で家に来てくれて、弟、何やってんだ、こんないい友達いるのにという思いが強まりました。


お通夜、葬儀の日程が決まり、新聞のお悔み欄への掲載文の作成や香典返しの選択などを嵐のように決めていきました。
家族だけで抱えるには辛すぎたので、朝からずっといてくれたM君と親族、仕事終わりに駆けつけてくれた夫が心強かった。

辛うじて水やお茶だけは意識的に摂っていたけれど、この日食べられたのは稲荷ずし1個。
ずっと全力疾走したかのようなどきどきが続き、足がふわふわして腰が痛かったです。
家族だけになるのは怖かくて名残惜しい思いで、M君、親族、そして夫の帰宅を見送って、いざ3人になると耐えられない寂しさということもなく、両親と私で弟の安置されている座敷で眠りました。
が、もちろん熟睡できるはずもなく、1時間ごとに目が覚めては夢じゃないんだなと思い、その度に深いため息が出ました。

でも、どこかで「これは夢かもしれない」とずーっと思っていて。

 

両親が喪服を着ているなんて、本当に、言葉の通り「夢にも思わなかった」。夢であってほしい。

その思いは、あの忘れられない朝から1週間経った今も続いています。