先日、ターの幼馴染が10年ちょっと前の写真を送ってきてくれた。
10年ちょっと前というと、最初に勤めていたところを辞めて次のステップに向かおうとするところ、まだ大きな挫折をする前のことだ。
もちろんまだそんなに太ってはいない…どころか当時はほっそりしていたし、何より、写真整理をしていたときに見つけたターの小学生の頃のような、目に透明感・生命力というか、何か、力があった。
「ああ、これがターの顔だね」
「このときと比べると、最近は顔が変わっちゃっていたんだね」
私たち家族の頭にあったターの顔だった。
昨年ターがお祭りに参加したときに撮った写真は、親しく話す人もいなかったのであまり面白くなかったということを差し引いても、目が虚ろで口角があがっているのに心ここにあらずといった表情をしている。
最近の中では一番いいなと思った私の結婚式での満面の笑みの写真ですら、水滴を垂らしたら泣き顔になりそうな笑顔をしている。
10年前あるいは小学生の頃の目とは似ても似つかない。
写真であっても目の色や目に浮かぶ生命力は分かるものなんだなあと思う。
彼の目の光は、10年近く前に仕事も挑戦していたことも大切な人も失ったときに消えていたのに、私たちはそれに気づかず・あるいは目を背けて、「笑っている・笑っていない」で判断して安心していた。
私は離れて住んでいても月に1度は実家に帰ってターの顔は見ていたし、両親に至っては毎日彼の顔を見ていたのに、それともだからこそなのだろうか、ターの奥底にある感情を見つけることができなかった。
挫折後も良い人との出会いがあったり、新しい仕事をいただけたり、保護猫を飼ったりと喜びも達成感もあったのだろうけれど、挫折を覆すには至らなかったということを今こういう結果になってみて初めて知った。
挫折を乗り越えてとは言うと大げさに聞こえるけれど、そんなこともあったなあという気持ちでいいから生きていってくれたらよかったのに。
私のように「こんなんでいいのかなあ」と思いつつでも生きていてくれればよかったのに。
ターが自死したとき、彼を知る人は口を揃えて「真面目だったから、繊細だったから」と言ってくれたけれど、いまひとつピンとこなかった。
でも、私たちから見たらそんなことと思うようなことを何年も何年も抱え込んでずっと心に矢が刺さった状態で、そんな自分に納得がいかなかった…これが「繊細すぎた」ということなのかなと思う。
小さいときは「ウリ坊」なんて言われて突っ走るタイプだったのに。
いつの間にそんなに繊細になっていたんだろうなあ!
でも、悩んでいても本当の笑顔でも、どっちも私たちの大切なターには変わりないよと写真に向かって話しかけている。