「お姉ちゃん、セントジョーンズワートって効くね」
弟がそう言っていたのは、6月の両親の誕生日会の日の夜だった。
弟の部屋で話していたときに、藪から棒にセントジョーンズワートのことを話し出した。
かなり前のことだけど、私自身精神的に大変だった時期があってセントジョーンズワートというハーブが、不安な気持ちを気持ちとかイライラを鎮めてくれるものだというのは知識としてあった。
けれど、なんでまた、ターが使ってるんだろう?
そう疑問に思いながら、
「えー、そうなんだ…飲んでみたんだね…」
猫を撫でながら、そんな曖昧な返事をしてしまった気がする。
そして、ターはスマホから顔を上げて私の顔をみて、ちょっと口角を上げながら様子をうかがうような目をして、うんうんと頷いていたっけ。
ああ、今思えば、あれは、ターの”何かを待っている顔”だった。
それなのに私は、
「セントジョーンズワートねえ…」
と言ったものの私は言葉の接ぎ穂が見つからず、猫も撫で飽きて来たので「そろそろ行くね」と部屋を出てしまった。
あのとき、ターはもっと話を聞いて欲しかったんじゃないか。
「ター、なんでそんなの飲んでるの?何か悩んでる?」
そう聞いて欲しかったのかもしれない。
私が聞いていたら、ターはそのときの悩みを、本心を話してくれていたかもしれない。
交際相手に不信感を抱き始めたこと、この恋愛がダメだったらと思うと人生そのものまでだめになってしまいそうな不安を。
そう思うと、悔やんでも悔やみきれない。
亡くなった人にごめんねは禁物だと言われても、言ってしまう。
あのとき、気づいてやれなくてごめん。
会話の糸口を探して思い切って話してくれたのかもしれないのに、流し聞きをしてしまってごめん。
自分の人生に後悔は一つもなかった。
いや、後悔はあったけれど「これで良かったんだ」と思うようにしていたし、その試みは成功していた。
けれど、多分これが唯一にして最大の後悔になると思う。
どうやったってプラスに転じさせることができない。
ター、あのとき聞いてやれなくて、気づかなくて、本当にごめん。