ターがいなくなって2カ月半。
最初の1カ月は、「こんなことが起こっていいはずがない、ターは戻ってくる」と思っていた。
火葬されて葬儀をしても、本気でそう思っていた。
でも、2カ月を過ぎたあたりから、ターは違う世界に行ったんだと認め出した。私も、家族も。
直接そうは言わないけれど、家族の話す言葉からそう感じる。
「ターのことは、もらい事故みたいなものだったと思う」
「楽になったんだよね」
「さいごはもう、身体も別人みたいだった。自分でもどうしていいか分からなかったんだろうね」(クローン病の影響で激やせして60Kgを割ったこともあれば、さいごの1年ほどは過度な筋トレとプロテイン摂取で90Kg近くになっていました)
これがキュブラーロスさんの言う「受容」ということだろうか。
受容というよりも「諦め」の方が正しい感じもするけれど、それも一種の受容なのだろうか。
受容できたということは、ここからはターといた時間はもう、優しい思い出に変わっていくのだろうか。
私だけかもしれないけれど、死にも「隣の芝は青く見える」という感覚はあるのだと思う。
遺されたものにとって一番辛いのが自死で、それに比べたらまだ仕方ないと思えるのが事故死。
せめてお別れの時間のある病死だったらよかったのに、遺族とくに親からしたらどうしようもない自死なんてことが家に起こるなんて、と。
そんな気持ちがあるから自死を「優しい思い出」なんかにできないと思っていた。
けれど、時間と「自死を含めどんな死であっても死は同じ」と言ってくれる本やお世話になっている宗教者の方からの言葉が少し私たちの考えを変えてくれた。